もっぱら理性を重視して、快・不快の功利計算こそ単純明晰な行動原理だ、とする功利 主義のドグマが著者の内なる情念をどれほど過剰に束縛したのかの次第は、これまた著者 の 『自伝』 に周知のとおりです。
本書は、このような生活背景をもつ著者が、自由の核心を、(あえていいかえれば)生 命の自由な躍動とみる視点から述べた自由論の古典といえましょう。
こうして、真理の教化にしても、ただ一方的にコレガ真理ダと強制されるのでは、そも そも真理を真理として抱くはずの躍動が干し上げられ、かりにまず誤謬におちいったばあ いなら、誤謬を反省しつつ真理に到達する自己修正機会も、誤謬のうちにひそむ一片の真 理を評価する手がかりも無視される、として批判します。
本書は、政府の権力とならんで、世論・慣習等、およそ個人の自由を拘束する巨大な社 会諸力を主要な標的とし、本書の議論もとくに言論のいわゆる(〜からの)消極的自由を 端緒に展開されます。それでいわゆる(〜への)積極的自由論者にはその点でもの足りな いかもしれません。
しかし、時代がすでに生存権保証の福祉国家体制を不可逆的趨勢とする今日、じつは消 極的自由こそが根元的自由権であり、積極的自由権とは、つまりは平等へのかぎりの自由 権に外ならず、その埒をこえた積極的自由は生命の自由な躍動ではあっても、権利の範囲 外にある事情が、あらためて共通の認識となっていいでしょう。
論理学から経済学におよぶ多面な著者自身の知的生産は、まさに権利をこえた領域での 生命の自由な躍動の発露なのでした。