白い航跡(上・下)

講談社 1991

   吉村昭 著


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橘正道(医学部)

 我が国の産んだ偉大な医学者の一人、高木兼寛の伝記を小説とした作品である。いわゆ るドキュメンタリー作家である著者の吉村昭は医学者に興味をもち、以前に「日本医家伝」 (講談社)を表わし、日本での近代医学の発展に先駆的役割を果たした12名を紹介し、そ の中に兼寛も含めている。今回は、彼の伝記を上下2巻の長編小説に仕上げたのである。

 イギリス留学より帰った兼寛が海軍軍医となり、当時、水兵の間に蔓延していた難病、 脚気の予防に心血を注ぐ。食事に問題があると考察した彼は多大の困難を越えて、遠洋航 海に出る軍艦の食事を和食より西洋食に代えることで脚気の発病を追放した(1884年)。 その20年後の日露戦争で陸軍では脚気により実に3万人近くの兵士を失ったが、海軍では 皆無といってよかった。なぜか。派閥意識に根ざす偏見が改革を大幅に遅らせたのである。 兼寛の壮大な実験はむしろ外国で有名であり、20世紀におけるビタミンB1に始まる各 種ビタミンの発見に重大なヒントを与えた。その後、兼寛は慈恵医大の創設、また日本で 初めて看護婦を組織的に訓練する看護学校を設立し、医療行政に大きな役割を果たした。

 高木兼寛の名は業績の大きさの割には広く知られていない。あまり愉快でない理由によ る歴史記述の偏りが関っているように思う。この小説は何もそれを正面に出して描いたも のではない。明治維新という日本の最大の変革期に、風雲の志をもち、激しく生き、働き 抜いた一人の男の一生をリズミカルな筆致で書き上げている。ということで小説として読 みとばしてもよいし、一医学者の伝記として読み自分の人生の歩み方を考えるのもよいし、 医学史、社会史として考察するのもよかろう。いずれにせよ、兼寛の強烈な訴えが読者の 耳に達することは間違いない。


culis@ll.chiba-u.ac.jp Jun. 1995