法学の出身でありながら、経済史、社会学、比較宗教、政治分析と多彩な活躍をした著 者の多面にわたる膨大な著作の中でも、ひときわ話題をよんだのが本書です。
本書の出版以後、本書の中心命題、つまりマルクス主義の唯物史観が、生産手段と直接 生産者との直接的関係を基軸とする下部構造による、思想その他の上部構造いっさいの究 極的規定性を主張するのと対蹠的に、プロテスタントティズムの<召命>観から、ひたす ら職業を天職として、これに従事する思わざる結果としての富の蓄積と、したがって、た んに利潤を無限に追求するのではなく、逆説的に、禁欲を通じての近代資本主義の創生を 解く本書の主張をめぐっては、今にいたるまで賛否両論が絶えません。
たしかに、早く R.H.トウーニー 『宗教と資本主義の興起』(R.H. Tawney, Religion andthe Rise of Capitalism)による北イタリアのカトリシズムと政治事情との下での近 代資本主義成立事例の指摘をはじめ、本書のいわゆるウェーバー・テーゼにたいする反証 は数々蒐集されてきました。こうして、ウェーバー・テーゼはすでに粉砕されつくしたと みる人もいまでは少なくありません。
けれども、にもかかわらず今日なお、あえて本書が推賞に値いするのは、たんに《精神》 の視角からする社会分析に、マルクス主義的唯物史観批判の古典例を認めるからだけでは ありません。
著者は、本書の末尾で、プロテスタンティズムの召命倫理から出発した近代資本主義 が、著者生前の二十世紀初期の現実においてさえも、もはやたんなる無限利潤追求動機に 駆動される世俗運動になりおおせた現状を、イロニーをもってみつめます。そこには、近 代資本主義を運動原理とする近代文明への嘆きをこめた洞察が秘められているのです。