《大槻玄沢(1757-1827)》は、仙台藩の支藩である一関藩の出身。諱茂質(しげかた)、字子煥、磐水と号す。
《シーボルト(Philip Franz von Siebold. 1796-1866》は、ドイツのヴュルツブルグで生まれた。1820年ヴュルツブルグ大学医学部を卒業し、2年間の実地医療の経験ののち、オランダ商館付医官として来日した。来日した時、まだ27歳の若さであった。シーボルトには、単にオランダ商館付医官としての任務だけでなく、日本の博物学的、民族学的調査や日蘭貿易のあり方に関する調査の任務も課せられていたと言われる。鳴滝塾では実地医療の傍ら二宮敬作、美馬順三、小関三英、高野長英等数十名の門人に医学や博物学を講義した。また門人たちに日本の歴史や風俗、動植物等に関するテーマを与えてオランダ語の論文を提出させた。帰国後刊行した大著『日本』(1833-1858年刊)は、これらの論文を基礎資料として執筆したものといわれる。
《宇田川玄真 (1769-1834)》は、5で記したように宇田川玄随の養子で、榛斎と号した。大槻玄沢、桂川甫周に蘭学を学び、稲村三伯等の『波留麻和解』の編集に協力し、また、諸種の西洋解剖学書を翻訳集成した『遠西医範』を著わし、これを簡略にした『和蘭内景医範提綱』を刊行したり、著訳書が多い。
《宇田川榕菴(1798-1846)》は玄真の養子で、その研究の範囲は広く、薬物学のみならず日本で最初の西洋植物学紹介書『菩多尼訶経』(ぼたにかきょう)や体系的な紹介書『植学啓原』を刊行。さらに数多くの化学稿本を著し、舎密開宗』で本格的に西洋化学を紹介した。
《松本良順(1832-1907)》は、佐倉に蘭学塾「順天堂」を開いた佐藤泰然の子として生まれ、坪井信道、竹内玄同、林洞海らに医学を学び、安政4(1857)年幕命により長崎へ留学、ポンペに師事した。ポンペの信頼篤く、ポンペの建議で設立された日本で最初の西洋式近代病院「長崎養生所」の副院長としてポンペを助けた。のち幕府の医学所頭取となり、幕府の崩壊とともに会津に逃れる。明治に入って、許されて明治政府に仕え初代軍医総監になった。
《緒方洪庵(1810-1863)》は、備中足守藩士の子として生まれ、医学を志した。大坂で中天遊に、江戸で坪井信道、宇田川玄真に学び、また長崎に遊学した。その後大坂で蘭学塾「適塾」を開いて後進の指導に当たった。この適塾から幕末、明治にかけて活躍した大村益次郎、福沢諭吉、橋本左内、大鳥圭介、長与専斎等が輩出した。一方洪庵は種痘法の導入、普及に努力し、大坂に除痘館を設け、分苗を行った。
《青地林宗(1755-1833)》は伊予松山藩の藩医の子として生まれ蘭学を志した。
《川上幸民(1810-1871)》は、摂津三田藩の藩医の子として生まれ、長じて江戸に遊学した後、江戸の芝で医者を開業した。
《広瀬元恭(1821-1870)》は甲斐の医者の子として生まれ、江戸に遊学後、大坂の適塾に入門した。のち京都で医者を開業し、また蘭学塾「時習堂」を開いて後進を指導した。佐野常民や陸奥宗光もその門人であった。
『洋学史事典』 日蘭学会篇 雄松堂出版 昭和59(1984) [402.1/Y73]
『医学文化年表』 藤井尚久編 復刻版 医道の日本社 昭和52(1977)
[490.3/I23]
2. 単行書
『蘭学のころ』 緒方富雄著 弘文社 昭和19(1944)
『日本の医学』 石原明著 至文堂 昭和41(1966) (日本歴史新書 増補版)
[210.082/N77]
『洋学伝来の歴史』 沼田次郎著 至文堂 昭和41(1966) (日本歴史新書 増補版) [210.082/N77]
『日本医家伝』 吉村昭著 講談社 昭和46(1971) [490.28/Y93]
『日本医学史綱要』1〜2 富士川遊著 小川鼎三校注 平凡社 昭和49(1974)
(東洋文庫) [080/TO82]
『洋学史の研究』 佐藤昌介著 中央公論社 昭和55(1980) [402.1/SA85]
『呉秀三著作集』 第1巻 思文閣出版 昭和57(1982) [490.2/KU59]
『和蘭医学事始』 杉靖三郎著 春秋社 昭和57(1982) [490.2/SU32]
『近代日本の医学』 阿知波五郎著 思文閣出版 昭和57(1982) [490.2/A15] {亥鼻分館所蔵 [WZ40]}
『日本翻訳語史の研究』 杉本つとむ著 八坂書房 昭和58(1983) [849.3/SU38]
『医学史話』 藤田恒三郎著 菜根出版 昭和59(1984) [490.2/F64] {亥鼻分館所蔵 [WZ40]}
『江戸のオランダ医』 石田純郎著 三省堂 昭和63(1988)
『洋学』 沼田次郎著 吉川弘文館 平成元(1989) (日本歴史叢書) [210.08/N77]
I.蘭学・オランダ語入門、オランダ語辞書
蘭学の入門書。蘭学の由来、沿革、効用、学ぶ者の心得、オランダ語の綴字、発音、訳文の要領等を解説。
1.『蘭学階梯』(らんがくかいてい) 乾坤2冊
大槻玄沢著 天明8(1788)刊
杉田玄白、前野良沢に学び、長崎にも遊学。のち江戸京橋に蘭学塾「芝蘭堂」を開き、後進の教育に当たった。
門人には、稲村三伯(のち海上随鴎)、小石元俊、山村才助、安岡玄真(のち宇田川玄真)等がいた
『訳鍵』は日本最初の蘭和辞典『波留麻和解』(はるまわげ)(『波留麻和解』には2種あり、稲村三伯が中心となり、フランソワ・ハルマの蘭仏辞典を和訳したものを、「江戸ハルマ」といい、一方長崎のオランダ商館長ドゥーフの指導によってオランダ通詞十余人が協力して同じフランソワ・ハルマの辞典を翻訳した「ヅーフ・ハルマ」があり、これを「長崎ハルマ」という。)の「江戸ハルマ」から作った蘭和小辞典で『波留麻和解』に比べハンディであることから広く使われた。もともと乾坤2巻に「凡例・附録」を付して3巻であるが、本学所蔵のものは「凡例・附録」がなく、乾坤2巻を合綴したものと思われる。2.『訳鍵』(やくけん)
藤林晋山編 文化7(1810)刊
『蘭学逕』は『訳鍵』の「凡例・附録」として書かれたものでオランダ語入門書の性格をもっていたことから、『蘭学逕』と名称を改め刊行された。 3.『蘭学逕』(らんがくけい)
藤林晋山編 文化7(1810)刊
『和蘭語法解』は日本で最初のオランダ語文法書である。上中下3巻から成るが、本学所蔵は上巻のみである。 4.『和蘭語方解』(おらんだごほうげ) 上巻
藤林晋山編 文化12(1815)刊
《藤林晋山(1781-1836)》(通称泰介または泰助、淳道とも称した。)は、京都の蘭学者で、稲村三伯(のち海上随鴎)に学び語学に長じた。文化7(1810)年には同じ京都の蘭学者小森桃塢等と屍体解剖を行った。
オランダの文法書 "Grammatica of Neederduitsche Spraakkuunst"を『和蘭文典前編』と題して翻刻したもの。後編は本学にはないが"Syntaxis of Woordvoeging der Nederduitsche Taal"が『和蘭文典後編成句法』と題して翻刻され以来この両書は、ガランマチカ、セイ ンタキスと称され、江戸末期には蘭学のもっともポピュラーな学習書となった。5.『和蘭文典』(おらんだぶんてん) 前編
天保13(1842)刊
箕作阮甫翻刻
《箕作阮甫(1799-1863)》は美作津山藩の藩医の子として生まれ、江戸に出て宇田川玄真(榛斎)に蘭学を学び天保10(1839)年幕府天文方蕃書和解御用、安政3(1856)年蕃書調所の初代教授に任ぜられた。
医学のみならず、天文、地学、兵器、電信、語学など広い分野で翻訳・著作を行ない幕末における西洋学の紹介に大きな貢献をした。
養嗣子の箕作秋坪(1825-1886) も蘭学者として著名で、幕末には外国奉行となり、明治維新後は森有礼等と明六社を設立し啓蒙活動を行った。
秋坪の子には、箕作佳吉(動物学者。日本の近代動物学の創始者)、箕作元八(西洋史学者として優れた業績をあげた)などがいる。法律学者として明治政府の法典編纂事業を支えた箕作麟祥は、阮甫のもう一人の養子省吾の子である。
蘭学の発生と発展を回顧した杉田玄白晩年の懐古録。82歳の文化11(1814)年に稿を起し翌年脱稿した。これを無題のまま門弟の大槻玄沢に渡し修訂を依頼した。玄沢は誤りを正し、不明の箇所を玄白に尋ねて補ったあと『蘭東事始』と題して2巻本の書とした。これがその後『和蘭事始』『蘭東事始』の題名の写本として流布した。明治2(1869)年玄白の曽孫(養子)杉田廉卿によって刊行された。その際福沢諭吉が書名を『蘭学事始』と改めた。6.『蘭学事始』(らんがくことはじめ) 上下(2冊)
杉田玄白著 明治2(1869)刊
2.医学書・薬学書
ドイツ人クルムス(Johann Adam Kulmus)著の"Anatomische Tabellen"(1732)のオランダ語訳 "Ontleedekundige Tafelen"(1734)を杉田玄白が前野良沢、中川淳庵等と協力して翻訳したもので、日本の近代医学のみならず、近代科学はこの書の出版に始まるとさえ言われている。1.『解体新書』(かいたいしんしょ) 序図、巻1〜4(5冊)
闕児武思(キュルムス)著 杉田玄白訳 安永3(1774)刊
この書の翻訳は、玄白、良沢等が明和8(1771)年千住小塚原で刑死体の腑分けを実見し、その際携えていったこの書の解剖図の正確さに驚嘆したことに端を発する。
翻訳の指導的立場にあった前野良沢の名がこの書に出てこないのは、訳述の精確を期する完全主義者の良沢と、拙速ではあっても一日も早くすぐれた西洋医学を世に紹介したいとする玄白との意見の違いにあったと言われる。
クルムスの著書は高度な学術書ではなく、高等医学教育を受けていない下級医師のための手引書であり、図が多く説明もわかりやすかった。しかし、翻訳に当って蘭和辞書もなく、原書を前に「艫舵なき船の大海に乗出せしが如く、茫洋として寄へきなく只あきれにあきれて」(『蘭学事始』)訳業を始めたにもかかわらず、その訳文はきわめて正確であるといわれている。
《杉田玄白(1733-1817)》は、若狭小浜藩の江戸詰の藩医の子として生まれ、長じて山脇東洋の『蔵志』を読んで刺激を受け人体解剖の実見を望んでいた。江戸に参府するオランダ人を訪問し、西洋の知識の吸収に努めていて前野良沢と知己になった。
『解体新書』の刊行後は、医療活動に精励して医師として令名があった。また天真楼という塾を開き、その門下には大槻玄沢、宇田川玄随、玄真等がいた。子息立卿のほか養子の伯元、立卿の子の成卿、養子の玄端など杉田家は幕末時まで江戸で蘭学の一中心をなした。
師の杉田玄白から『解体新書』の改訂を委嘱されていた玄沢は訳文の訂正に当たるとともに多くの蘭書を渉猟して得た知識をまとめて「名義解」及び「附録」として収めた。その量も全体の約3分の2を占め『解体新書』の改訳というよりは、玄沢の著書とよぶ方がふさわしいと言われる。2.『重訂解体新書』(ちょうてい・かいたいしんしょ)
序・附言、巻1〜2, 4、名義解、附録 上下(10冊)
鳩盧模斯(クルムス)著 大槻玄沢訳述 文政9(1826)刊
全13巻から成る書であるが、本学所蔵のものは巻3及び名義解2冊を欠く。
カスハル流とは紅毛流医学の初期の代表的な流派である。カスパル(Caspar Shamburger)は慶安2(1649)年オランダ商館医として来日した外科医で、慶安3(1650)年江戸参府の際幕府の要請により半年ほど江戸に留まり、医学の伝習を行い名声があった。この伝習記録が流布し、カスハル流外科として広まった。3.『阿蘭陀カスハル流書』(おらんだかすはるりゅうしょ)
安永7(1778)写
歴史に名を残す多くのオランダ人の中で、何故かこのカスパルだけが姓でなく名前で呼ばれた。
西洋眼科学をわが国に最初に紹介した書物。ドイツ人プレンク(J.J.Plenck)の著書のオランダ語訳 "Verhandeling over de Oogziekten"(1787)の翻訳書で、はじめ宇田川玄真が翻訳して『泰西眼科全書』5巻(未刊)として完成させたものを杉田玄白の子立卿が増補・改訂し、眼球解剖図を添え、『和蘭眼科新書』として文化12(1815)年公刊したが意に満たぬところが多かったため、更に改訂して翌年『眼科新書』として刊行した。4.『眼科新書』(がんかしんしょ) 巻1〜5、附録(6冊)
不冷吉(プレンキ)著 杉田立卿訳 文化12(1815)刊
西洋内科学の本格的紹介書。オランダ人ゴルテル(Johanes de Gorter)の内科書"Gezuiverde Geneeskonst of Kort Onderwys der Meeste Inwendige
Ziekten"(1744)を玄随が約10年の歳月をかけて翻訳し、寛政5(1793)年から文化7(1810)年にかけて刊行した『西説内科撰要』を養子玄真が増補改訂して、標記の書名で出版したものである。日本の内科学確立の基礎となった。5.『増補重訂内科撰要』(ぞうほちょうてい・ないかせんよう)
巻1〜18(6冊)
我爾徳児(ゴルテル)著 宇田川玄随訳 玄真補訂 文政9(1826)刊
《宇田川玄随(1755-1797)》は美作津山藩の藩医の子として生まれ、桂川甫周、杉田玄白、大槻玄沢等に学んだ。『遠西医方名物考』『西洋医言』等を著したが刊行には至らなかった。
養子玄真(榛斎)、その養子榕菴共に蘭学者として一家を成した。
シーボルトは文政6(1823)年来日後、長崎の医者楢林宗建宅で一般患者の診療を行うとともに、臨床講義を行うが、1年後には長崎郊外の鳴滝に別荘を設け、診療及び講義を行うことを許された。本書はこのとき行った調薬法に関する講義記録を写したものと思われる。
6.『失勃児杜験方録』(しーぼるとけんぽうろく)
巻1〜3(1冊) (年代不明)写
文政12(1829)年帰国に際し、伊能忠敬作成の日本地図など外国持出禁止の品々を持出そうとして発覚、彼自身も厳重な取調べを受けるが、多くの日本人が連座し死罪となったものもあった。いわゆる「シーボルト事件」がこれである。翌天保元(1830)年国外追放となった。
約30年後の安政6(1859)年、オランダ貿易会社の顧問として再来日した。
著書に前述の『日本』の他『日本植物誌』『日本動物誌』等がある。
はじめに玄真が、オランダの本草書や薬説から抄訳し、これを和漢の本草書と比較同定した数十巻の稿本を作成したが出版にはいたらなかった。養子榕菴がこの書の校訂・増補に努め刊行したが、玄真の著述した稿本の一部のみに留まった。7.『新訂増補和蘭薬鏡』(しんていぞうほ・おらんだやくきょう)
巻1〜18(18冊)
宇田川玄真訳編 宇田川榕菴校補
文政11(1825)〜天保6(1835)刊
しかし、玄真の稿本に比べ、個々の薬物の解説は遥かに詳細であるという。
《ポンペ (Johannes Lydius Catherinus Pompe van Meerdervoort)》は、安政4(1857) 年から文久2(1862)年までの5年間、幕府の要請で長崎において医学教育に携わった。日本における近代的医学教育は彼に始まると言われる。8.『邦百氏眼科新説』(ぽんぺしがんかしんせつ)
(1860年代?)写
彼から教えを受けた松本良順をはじめ、各藩から派遣された医師たちが幕末から明治にかけて日本の医学界をリードした。ポンペは医学教育のみならず、医療にも携わり、また折から流行しつつあった天然痘やコレラの予防や治療にも貢献した。本書はポンペが長崎の医学伝習所で行った眼科の講義内容の筆記を転写したものと思われる。講義はオランダ語通詞を介して行われた。
ポンペが松本良順に贈った眼科書でポンペのサインがある。9. Iconographie Ophtalmologique, par J. Sichel
Paris 1856.
《ボードイン(Antonius Franciscus Bauduin)》はオランダのウトレヒト軍医学校の教授をつとめていたが、教え子であったポンペの推薦によって、日本で医学教育を行うために来日した。10. 『鵬氏眼科書』(ぼうしがんかしょ) 乾坤(2冊)
鵬度印(ボードイン)口述
明治3(1870) 竹山屯義種写
文久2(1862) 年の来日から慶応2(1866) 年の帰国までの3年半、長崎の医学校にあって眼科学、生理学、外科学等の講義を行ったが、この写本はその講義録である。
ボードインはまた療養所でも治療を行った。また、日本人医学生のオランダ留学についても積極的に奔走し、緒方惟準、松本〓(けい)太郎等をウトレヒト軍医学校へ送った。
ドイツの医学者フーフェランド(C.W.Hufeland)の"Enchidion Medicum"(1836)のオランダ語訳書からの重訳である。著名な医家であったフーフェランドが自ら医療に携わった50年の経験をまとめたもので、著者の死の直前に初版が出版されるや非常な評判となり、各国語に訳され広く愛読された。緒方洪庵の訳稿は天保13(1842) 年には一応完成し、写本で流布した。刊行が始まったのは約15年後である。11. 『扶氏経験遺訓』(ふしけいけんいくん)
巻1〜25、薬方編上下、附録上中下(28冊)
扶歇蘭土(ヒスヘランド)著 緒方洪庵訳
安政4(1857)〜文久元(1861)刊
西洋内科学はこの書の刊行によって大成したと称せられる。
また、コレラ流行(安政5)時にはいち早くそれに関する医書を刊行(次に示す『虎狼痢治準』)するなどして啓蒙を図った。
文久2(1862)年、幕府に召され、奥医師兼西洋医学所頭取となり、法眼に叙せられたが在職僅か10か月で死去した。
オランダの3種の医書からコレラに関する部分を抄訳してまとめたもの。最初 100部限定で刊行したところ、長崎の松本良順からポンペ批判の部分につき抗議があった。そこで良順から寄贈されたウンデルリッヒの著書の抄訳と経緯を追記して再び刊行したがその異版がこの書である。 12.『虎狼痢治準』(ころうりちじゅん)
緒方洪庵編訳 安政5(1858)刊
3.自然科学書
この書は医学の理解に必要な理化学的知識を授けることを目的として出版されたものである。1.『気海観瀾』(きかいかんらん)
青地林宗訳編 文政10(1827)刊
オランダの諸種の理化学書を渉猟・訳出したもので内容は物理学を主とし、ほかに簡単ながら化学的記載も含んでいる。
宇田川玄真、杉田立卿、伊藤玄朴と親しく交わり究理学(理化学)に関心を強めた。
オランダの科学者ボイス(Johannes Buys 1764-1838)の著書を中心に訳述して『格物綜凡』を著わしたが、その一部分を一本とし、『気海観瀾』として上梓したものである。
文政5(1822)年幕府天文方蕃書和解御用に出仕し、多くのオランダ書の翻訳に当たった。
女婿に坪井信道、川本幸民がいる。
林宗の業績は広く、医学、薬学、物理、地理、外国事情に及んでいる。
青地林宗の女婿であった川本幸民は、岳父林宗の『気海観瀾』を拡充・補足してこの書を刊行した。量的には『気海観瀾』の約7倍となっており、内容的にも日本物理学史上記念すべきものとなった。広く教科書としても用いられ、西洋の近代科学の普及に大きな役割も果たした。2.『気海観瀾広義』(きかいかんらんこうぎ)
巻1〜15(15冊) 川上幸民著
嘉永4(1851)〜安政5(1858)刊
ドイツ人イスフォルディング(J.N.Isfording)の著書のオランダ語訳を重訳したもので、学問の構造、西洋度量衡、数学、物理学、化学の基礎的事項が記されている。3.『理学提要』(りがくていよう) 首巻、巻1〜3(4冊)
広瀬元恭訳編 安政3(1856)
本書は、首巻と初編3巻、後編1巻の5巻からなるが、本学所蔵のものは、後編を欠いている。
参考文献
(注…[ ]内は原則として本館の請求記号)
1. 事典・年表
[参考図書閲覧室配架]
『世界大百科事典』 平凡社 昭和63(1988) [031/SE22]