大正時代(1912〜1926年)は、自由と自治の機運の高揚と既存の秩序・枠組みの見直しとその改革への模索の時代でした。日清・日露の両戦争を経て帝国主義の侵略と戦争の道へ舵をとっていた日本でしたが、満州事変(1931・昭和6年)、アジア・太平洋戦争の侵略と戦争の時代一色の到来までには一呼吸の間(ま)がありました。この短かい「過渡期」に花ひらいた大正デモクラシーの下で、教育界にも大正新教育の運動が高まってきます。
新教育の思想と運動は、19世紀末から20世紀第1四半期ころにかけての教育の国際的な一大潮流でもありました。エレン・ケイ女史(スウェーデン)が「20世紀を子どもの世紀に!」と言い放ち、「"児童から"の教育」の志向が"児童中心主義"の学校(child centered school)の多彩な試みとして欧米各国で具体化され、第1次世界大戦(1914〜1919年)の辛酸を経て、国際新教育連盟の結成(1921年)へと結実します。こうした世界的な動向にも触発されながら、日本でも新教育の教育思想・教育実践のうねりが高まります。
日本の場合、新教育運動の担い手は、一部の私立学校といくつかの師範学校附属小学校でした。前者では、例えば澤柳政太郎の成城小学校や羽仁もと子の自由学園などが、後者では、"分団式動的教育法"で知られる及川平治主事率いる明石女子師範(現神戸大)附属小の実践、"生活修身"や"合科教授"などを試みた木下竹次主事の下での奈良女子高等師範(現奈良女子大)附属小の実践などがあり、そして、東の"横綱"格とされていたのが手塚岸衛主事をリーダーとした千葉師範学校附属小(現千葉大教育学部附属小)の実践でした。千葉市亥鼻に所在した当時の千葉師範附属小の公開研究会は、県内はもちろん、全国各地から2万人の参観者を得て大変な盛況だったといわれています。
手塚と千葉師範附属小の実践は"自由教育"の名で知られています。普通選挙法(1925・大正14年)の施行に向けての国民・県民の参政権行使の訓練なども視野に入れながら、各学級の級長は校長による任命制から子どもたち自身による直接選挙での選出に改め、全校朝会を5,6年生による自主運営に委ねるなど、当時としては画期的な改革を試み、「分別扱」(小集団方式)と「共通扱」の臨機応変の展開による授業形態の改革などとともに注目を集めました。"自治"と"自学"の精神を掲げる手塚らの主張は、教育史上に有名な「八大教育主張講演会」での全国の教師への檄(げき)の発信としても全国にその名をとどろかすところとなったのでありました。